Thursday, November 9, 2017

プロジェクト下書き final draft

日本の京:飛鳥京から平安京まで

7世紀は「日本」という国家が成立する一番重要な時代だと言われている。その頃、中国の制度や法律などから多くの影響を受け、新しい政治組織が作られた。それは天皇が統治する中央帝国である。それに対し、政府が駐在する京は最も重要な要素である。この発表は日本の京がいかに起源して、発展するかを表したい。

Part A 宮から京まで:京の起源

1 京の歴史
日本古代の京について、一番初めに思い浮かぶのは奈良や京都かもしれないが、実際は奈良(平常京)の前に二、三の京もある。日本の一番古い京は592年に作られた飛鳥京である。平安京(京都)は皇居(皇宮)と周辺の住宅地が構成する都会、今でもその構造が見られる。しかし飛鳥京は、京と呼ばれが、皇居と宮廷しかない。つまり、京は皇宮と同じものである。645年に作られた難波京から、日本の京は初めに住宅地を含む、大きい都城になっていった。

2 京の構造
難波京から平安京(京都)まで、京の構造はだいたい同じで、簡単に言うと、皇宮と住宅二つの要素がある。

先ずは一番北の皇宮である。皇宮には三つの要素があり、南から北まで、各官庁が含まれる朝堂院、国家式典を行う大極殿、そして天皇が住む内裏である。皇宮はいつも一番北にあり、伝統的に最も威厳の方位に座って、庶民に面と向かいあった。皇宮の周辺は住宅地である。

地図を見ると、皇宮の南にある朱雀大路は京を東の左京と西の右京に分けた。平常京(奈良)から、左京と右京に東市と西市もある。それから、南北の坊と東西の条は住宅地を正方形の町に分けた。

Part B 長安:日本の京の原型

6世紀の終わりに作られた長安は日本の京の原型と言われている。これは京の組織、建築の様式、そして哲学の思想の三つのポイントから見られる。

1 長安の中には、皇宮が一番北にあって、住宅地に面と向かいあっていて、京が二つに分けられていた構造は平常京でも平安京でも同じである。さらに、東市と西市などの都会の建築は日本の京にはっきり見える。

2 日本の京の重要な政府建築は長安の建築様式を模倣して作られた。例えば、平安京の朝堂院、平城京の大極殿は長安の含元殿ととても似ている。

3 都城として、長安は哲学も宗教も表現していた。皇宮が一番威厳の北の方位にあるということはその一つの例である。そして、中国の四神(四方を司る霊獣)の影響で、平常京と平安京の中に、皇宮から南の大門に通じる大路は朱雀大路と命名され、朱雀の由来は南を司る霊獣である。

Part C 日本の京の革新

日本の京は中国からの影響は否定できないが、原型と異なる独特なポイントもある。

1 先ずは日本の京では、貴族は北に宮の近くに住みたがっていたという傾向が見える。そして、中国の外壁に囲まれた町と比べ、日本の町は開放的であった。が、日本の町の管理は中国のそれよりもっと複雑で、一つの町が512部分に分けられていた。

2 宮の中では、長安の宮は皇宮と宮廷を隔てていたがそれとは異なり、日本の皇宮では隔てなっかた。皇宮の中の建築について、重要な政府建築は長安の建築様式を模倣したが、日本伝統的な方法も使用した。それから、中国様式の建築以外にも、日本の伝統的な建築もあり、天皇が住んでいた場所は日本の伝統的な建築である可能性もある。